■ハノーファーだより


大植英次後援会会報に寄稿していただいた原稿を転載しました。


 まつばら・きよし 1958年大阪府枚方市生まれ。82年大阪音楽大卒業後、ハノーファー芸術大に留学。86年にハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニーに入団。99年から07年まで首席指揮者大植英次の右腕として楽員総代表を務めた。バロック・オーボエ奏者としても知られ、オランダ、ベルギーの古楽器コンクールでの入賞経験もある。「カンマーフィルハーモニー・ハノーファー」、「ヤング・マエストロ・コンサート」、その他のオーケストラ企画にも携わり、古楽器を使った室内楽やソロ演奏活動も行っている。ランゲンハーゲン市(ハノーファーの隣町)の自宅には「マツバラ木管楽器工房」も開業、オーボエの修理では、ドイツで三指に入る実力者。趣味は飛行機操縦とアーチェリー。2000年にドイツ飛行操縦免許を取得、計器飛行の免許も持ち、現在はもっぱら自家用双発機でヨーロッパ内を移動する。在独27年。





◇第1回◇(08年6月27日発行)

 突然の日本人首席指揮者
  エイジ流タクト団員の心つかむ


 われわれが留学をしていた時代、つまり今から四半世紀ほど前は、日本を発つという別れのときには、たとえば親兄弟と水盃で一生の別れのつもりで袂を分かったものです。行き先がアメリカであれドイツであれ、音楽家としてなんとか格好がつくまでは二度と日本の土を踏むまいと決心して、皆それぞれに頑張ったのです。

 当時は指揮者でも演奏家でも、世界的に名の知れた大スターが現役の時代。カリスマ的な大スターを師と仰ぐことが可能であったことは、われわれ学生にとっては、しごく当然のように受け止めていましたが、今から考えてみれば二度とあり得ないとても貴重な経験であったと思います。

 時代が変わって、われわれの留学時代の苦労話など、今の学生にとっては何の役にもたたない、ただの昔話になったような気がしてなりません。それでも、オーケストラに入団してようやく再び日本の土を踏んだときの感動は、昨日のようでもあり、一生忘れ得ない思い出の一つです。

 私がハノーファーの北ドイツ放送フィルハーモニーに入団したのは、1980年代半ば。まだドイツの東西が統合される以前ですから、いわゆる西ドイツということになります。大植英次という若い指揮者がアメリカでデビューしたのも、ほぼ同じころであったように記憶しています。といっても、それは後から本人に聞いた話で、90年代後半までは、それぞれアメリカとドイツで、互いに出会うことも知り合うこともなく、それぞれが修業時代を過ごしていたわけです。

 私はドイツでのオーケストラにおける自分の立場を、よく相撲の世界にたとえます。かつてのハワイ出身力士の立場と同じと考えられるわけで、けいこでは日本人の何倍も頑張り、加えて語学や習慣、しきたりなども十二分に身につけるということを常に心がけていた高見山関や曙関などの生き方に共感をおぼえました。彼らとよく似た苦労や経験を積んで、ちょうど大植氏と知り合う97年ごろには、オーケストラの中でも中堅プレーヤーとして、また仲間うちでもそれなりの地位を築くことに成功していました。

 さてそんなある日、突然天から降ってわいたように、日本人の指揮者がやってくると知らされたものですから、あれこれ思案が始まったわけです。というのも、せっかく日本を離れてドイツにいるのに、そこへよりによって日本人が首席指揮者としてやってくるというのですから、日本を飛び出したのに、何でこの期に及んで日本人の指揮者でなければいかんのかとか思考は堂々めぐりです。

 とりあえずのお試しコンサートの前後からは、他の楽員からの質問攻めにあいましたし、それにしてもまずは保身に回って、「触らぬ神にたたりなし…」ということに決めて、彼とは一切無関係という立場をとることにしたのです(もっとも、これは後から大植氏にすっかりと見抜かれるのですが…)。

 ともあれ、ドイツで機嫌良く暮らしていた私のところに突然現れたのが、大植英次というアメリカ産の若手中堅指揮者でありました。彼のやり方、つまりオーケストラを指揮するという方法には、いくつかの特徴があります。演奏の最中に、彼の背中ではなく顔を正面から見ている演奏家の立場から言わせていただくと、まずは縦の線がピタッと合うような指揮、つまり音の始まりと終わりをどうすればよいか、誰にでも分かる明快な指揮をすることだと思います。

 意外なことに、ただそれだけのことで、アンサンブルとしての美しい音色や正しい音程までゲットできるのです。つまりプレーヤーが余計なことに気を遣わない分、余裕を持って音作りや音楽表現に専念できるというメリットが生じてくるわけです。

 彼はデビュー初日のリハーサルから、そのような抜群のタクトさばきでハノーファーの楽団員をして「あっ!」と言わせたわけです。

 また、とびきり口数が少なく、やりたいことのすべてを指揮棒の動きで伝えるのです。コンサートでは、とにかく跳んだり跳ねたりして聴衆には大受けするような指揮法ですが、リハーサルでは極力言葉を控えめにして、指揮棒でものを言うというタイプです。

 彼のことを、ただ傍観してそのようすを見ていた私も、これならばOKと、さっそくひと安心しました。わずか数回の共演で、彼を98年から首席指揮者としてハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニーに迎えることに決定されたのも、しごく当然の成り行きだと思いました。またそれは、いわゆる「エイジ流」の指揮が、アメリカだけではなくドイツでも認められた歴史的瞬間でありました。



◇第2回◇(09年2月6日発行)

 大植流がオケに浸透 
  ゲスト指揮者は戸惑いも

 よく「指揮者は演奏会の最中に何のためにいるのですか」と聞かれることがあります。リハーサルさえやっておけば、指揮者などいなくてもオーケストラがひとりで演奏できるのではないかという疑問です。

 指揮者は音を出さないし、台の上に立って、演奏家の出す音に合わせてただ元気に体操しているだけのように見えます。何をしているのかよく分からないかもしれません。

 たしかに指揮者がいなくても、オーケストラはコンサートマスターの合図だけで演奏することも可能です。しかし腕のある指揮者なら、上手なリハーサルをするだけではなく、本番のステージでリハーサル以上の音楽をオーケストラから引き出すことができるのです。

 100名ほどの芸術家の精神活動の中心となる存在が指揮者で、また皆の気持ちをコンサートというその場で、一つに集中させてオーケストラという巨大な有機体を動かすことが指揮者の仕事と言えます。

 ただ、オーケストラには持ち曲(レパートリー)というのがあって、その曲なら楽譜がいらないというくらいに慣れている場合もあります。そんな曲のときには指揮者なしでも演奏できるのもたしかです。

 とくに面白いのは、名音楽監督の率いる名門オーケストラなどが十八番の曲を自分たちの監督とではなく、ゲストの指揮で演奏するときです。

 ゲスト指揮者がどんなに頑張っても、普段通りの音楽監督の方法でしかそのオーケストラが動かなかったりするのです。そういうオーケストラは、ゲスト指揮者のためにリハーサルをするのであって、楽団員は曲目をすべて熟知していますので、ゲストから稽古をつけてもらう必要はありません。今、まさにハノーファーフィルはそのような状態だと思います。

 オーケストラが大植氏のやり方に慣れていて、いわゆる彼とのレパートリーというのもあり、そういった曲をゲストが演奏すると、まるでそこに大植氏がいて後ろから二人羽織で棒を振っているように感じます。

 大植氏の口癖に「nicht eilen!(ニヒト・アイレン=走るな!)」というのがあって、ついオーケストラの楽員がゲスト指揮者に向かってそれを連発して大笑いになることがあります。もちろんゲストはなぜ笑っているのか分からずキョトンとしますが、大植氏の口癖がそのままオーケストラのキャラクターになったということです。ゲスト指揮者に「走るな!」とオーケストラが注文するのですから、ゲストもさぞやりにくいことでしょう。

 とにかく指揮者は、オーケストラを使って自分の音楽を表現しようと試みるわけですが、そのためには、じつにいろいろな苦労があるものです。

 われわれ海千山千のオーケストラの楽員は、たいていリハーサル初日の最初の10分間くらいで、その指揮者が信頼するに足るかどうか見破ってしまいます。

 その最初の10分間をうまく乗り越えるためには、確固とした技術と高い音楽性が求められるのはもちろんですが、人格や性格といったことまで判断の基準になります。

 それをクリアしても、さらに本番までの数日間、百戦錬磨のオケマン相手にリハーサルで孤軍奮闘を強いられるのですから、指揮者という商売も楽じゃない、と思います。

 ですから、大植氏が最初の10分どころか、十数年を経た今でも、同じオーケストラでずっと団員からの人気を失わずにやっておられることは驚がくに値するというわけです。

 北ドイツ放送局(NDR)にはハノーファーの他にハンブルグにもシンフォニーオーケストラがあります。ギュンター・ヴァント氏のオケというと、ご存じの方も多いのではないでしょうか。そのギュンター・ヴァント氏もある時期からは首席の地位は他の指揮者へ譲り、晩年までの長い間、専ら名誉指揮者として指揮されていました。

 日ごろは、エッシェンバッハ氏などが首席指揮者として率いているのですが、彼らのような一流をしても、なかなかヴァント氏を超えることは難しく、また肝心なところはヴァント氏が指揮棒を振るので、結局いつまでたっても「ギュンター・ヴァント氏のオケ」という言い方がされていました。現にあれからかなり時間の経った今日でも、あいかわらず「NDRハンブルグ? え? ああギュンター・ヴァント氏のオケですね…」となるわけです。

 さて、そういった首席指揮者の上に名誉指揮者が君臨するという伝統習慣のある北ドイツ放送局ですが、今年の夏から、大植氏がハノーファーの名誉指揮者に昇格することになりました。

 これは、首席指揮者としての在任期間が10年を超えて、なおかつオーケストラからの人望も依然として厚く、しかも抜群の知名度をもってコンサート会場を毎回満員御礼にする彼の実力に対しての北ドイツ放送局からの敬意といっても差し支えないかと思います。

 今後はおそらく長い間、世間から「NDRハノーファー? ああ大植氏のオケですね…」と言われることでしょう。首席指揮者の後任は北欧のエイヴィント・グルベルグ・イェンセン氏に決定しています。ある意味で完熟期を迎えたハノーファー北ドイツフィルでの、今夏以降の名誉指揮者大植氏の活躍に大いに期待したいところです。

 ついでながら申し上げますと、今年6月の日本公演が大植氏のハノーファーにおける首席指揮者としての最後の仕事となります。おそらく特別な雰囲気で感動を呼ぶコンサートになるのではないでしょうか。

 われわれにとっても、おそらく卒業式のようなものですから、感極まって泣き出す団員もいるかもしれません。またそれは、大植英次という若手指揮者が、若手を卒業して大きく「マエストロ」に進化する歴史的瞬間なのかもしれません。

 また、彼が10数年間にわたってひたすら情熱を注ぎ、自分の愛児のごとくに育て上げたオーケストラが、いったいどういう演奏をするのかも、ぜひライブで体験していただきたいと思います。

 おそらく先ほどの、指揮者は演奏会の最中に何のためにいるのかという疑問にも、その場で答えが見つかることと思います。



           筆者㊧と大植英次さん





◇第3回◇(09年10月15日発行)

高品質の切れ味期待 
  転換期の大植さん 今後10年が重要


 先日、ある老練な指揮者との会話の中で、「今の50歳代の指揮者は、何のために音楽をやるのか分かっていない」という話が出ました。

 ヨーロッパでも日本でも、50歳代の指揮者を見ていると、人気とは裏腹に、見た目が派手なだけで、音楽的な内容のないパーフォーマンスだけにとらわれた仕事をやっている人が多いように思われて仕方ありません。

 スーパーマーケットや量販店、はてはコンビニなどが登場して便利な時代になり、その時代の申し子ともいえるのでしょう。たしかに「とりあえず」ということが先立つ場合もありますので、そういった意味では、コンビニにはコンビニの良さがあると思います。しかし、小さな老舗の専門店での買い物の味わいや、その店の主人の仕事に対する熱意や愛情、そして何よりも知識の豊富さや深みなどに触れる楽しさを知っている人もいるはずです。 

 お茶一つにしても、専門店で人と「お茶」についての会話をしたうえで買ってきたものと、スーパーの棚から無言で取ってきた品では、味わいが違います。

 あれもある、これもあるというのは、一見豊かさのように勘違いされますが、「広く浅く」ということに他なりません。ですから、いわゆる「素人」には受けますが、本物を知った人たちにはたちまち馬脚を現すということになるわけです。

 指揮者も若いうちは、自らに制約をつけず、どしどしいろんなことをやらねばなりません。自分がどういう種類の音楽のオーソリティーになるのかは、周囲の環境や聴衆をはじめとする他人が決めることでもあり、自分としてできることは、白黒のスコアと向かい合ってそこからなるだけ多くの色彩を掘り出すという仕事しかないと思います。

 私などは一介の楽団員にしかすぎませんが、若い指揮者との出会いには、毎回大いに期待を寄せ、またその人が有能な場合には、その将来にも期待で胸を膨らませます。楽団員としては、われわれの前に立つ指揮者は、どんなに小さな店だとしても、深い味わいのある専門店の主人のようであってもらいたいのです。

 マエストロと呼ばれる境地にまで達した指揮者の中には、レナード・バーンスタイン氏のようにスーパーマーケットのようなタイプの人もおられます。しかし、彼は例外中の例外でしょう。

 ただクラシック音楽の場合は、手間ひまをかけたスローフードが求められているわけです。ですから、簡単お手軽とは相反することになります。 オーケストラのメンバーの過半数を占める弦楽器奏者の人たちは、スローフードの代名詞のようなものです。なにしろ下手をすると4~5歳くらいから始めているわけですから。

 指揮者の味というものは、喫茶店のコーヒーの味と同じようなところがあって、どこそこの店のコーヒーがうまいというのに似ています。うまいという定義も人によってさまざまですが、中には雑誌に載ったからとか、店の場所が高級だからファション性にひかれてといった別の動機もあります。結局今の50歳代の指揮者は、この後者を狙った指揮をする人が多いということです。

 さて、ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモーニーの首席指揮者の任を若手のエイビント・グルベルグ・イェンセン氏に譲った大植氏は、ハノーファー市では誕生日の10月3日に、名誉指揮者としての再デビューを果たしました。演目は彼がバイロイト音楽祭で演奏したワーグナーの名曲「トリスタンとイゾルデ」より「愛の死」、もう一曲、ワーグナーの作品で「ジークフリート牧歌」、休憩のあとギドン・クレマー氏をバイオリンのソリストに迎えてショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第2番という内容でした。

 新聞評によると、バイオリン協奏曲について特に絶賛されており、大植氏の伴奏に対する腕前が超一流であることを内外ともに再認識させた結果になりました。

 ハノーファーの団員にとっては、すでにイェンセン氏との新時代を開始しているわけですから、大植氏の再登場には非常に微妙な空気があったのも事実です。ドイツ語で言うところの「シュネー・フォン・ゲステルン(昨日の雪)」とか「カルテ・カフェ(冷めたコーヒー)」ということにさえなりかねなかったわけですが、そういう評価が出るよりも、コンチェルトの伴奏の腕前が先に立つ結果となり、楽員たちも今後の大植氏の指揮に期待するというような空気になったわけです。

 私の眼には、まさに今こそが大植氏の転換期であると映っています。若手としてのこれまでと、中堅としてのこれからは、彼の仕事の内容が違ってきて当然だと思います。また「指揮者は60歳から」ともよく言われるように、これからの10年ほどは、ある意味でそこへ到達するための最後の時間と思われます。

 それゆえ、ここはひとつ落ち着いて、自分の音楽に対する造詣をより深めるということで、味わいのある専門店の主人の出すコーヒーの味のようなものを身につけていただきたいと思っています。また、そのことに対して大きな期待をしています。

 最近の彼の好みであるスロー・テンポも、一つのキャラクターになりつつあるのですが、それよりさらに高品質の、彼らしい切れ味の鋭いものが他にあるような気がしてなりません。それは何かと申しますと、人の「感心」よりも「感動」を呼ぶものです。

 音楽をすることのモチベーションが、人からほめられたい、人を喜ばせたいというところから「この感動を人に伝えたい!」という方向へ変わりつつあるのではないでしょうか。そうやって敬虔なる音楽のしもべであることこそ、われわれ50歳代の音楽家に課せられた使命だと思います。
 「実るほど頭の下がる稲穂かな」





◇第4回◇(10年2月16日発行)

大植さんに別の何か期待 
  「続き」でなく新たな高み

 海外生活も長くなると、日本という国が妙に遠く感じたり、あるいは暮らしの中でのちょっとしたことから日本を強く意識してみたりします。たとえば最近、某テレビのドラマで、どこか遠方に娘を嫁がせる親に対して「まさか外国へ嫁にやるわけじゃあるまいし…(笑)」というせりふが語られるのを耳にして、自分がその「まさか」というところにいるわけですから、どう受け止めたらよいのか迷いました。

 家内の両親の本音を聞いたような気がしたと申せましょうか。真意としては「遠いといったって嫁ぐのは日本国内なのだから、会おうと思えば娘にいつだって会えるさ」くらいの感じでしょうか。つまり、会えないくらい遠いところ=外国、となるわけですね。いや、実際ドイツと日本という距離は侮りがたいものがあります。とにかく離れて暮らす家族に会おうと思ったとしても、そう簡単に会えるという距離でないことは確かです。と、ここまでは古い意見で、じつは地図上の位置が変化しないだけで、その距離がずいぶん縮まったように感じます。

 たとえばパソコンでのメールのやりとりや、ネット電話による日常会話などが可能になったことで、一般のニュースだけでなく、それこそ家庭内の茶の間の話題を日本にいる家族とまったく同時に受け取り、体験できるようになりました。まさに二十一世紀ですね。

 また、私どもでさえ、たまに日本のテレビ番組を見たりしていますから、百花繚乱の番組表にウンザリして、あまりテレビをご覧にならない日本の方々よりも、かえって最近の日本の流行などに詳しかったりします。さらには、直行便でドイツを出発して11時間後には日本に到着しますから、それこそ、その気にさえなれば24時間以内に家族に会えるわけです。このように日本がなんとなく近くなった昨今です。

 ところが、わが家のドアを開けて一歩外へ踏み出せばドイツの社会が、相変わらず展開しているのですね。つまりそのことはかつて日本を遠いと感じていたときと何ら変わりがないのです。日本が近くなったということなど、そこでは1グラムの重みもありません。

 さて、前置きが長くなりましたが、大植氏はハノーファーの名誉指揮者として、この2月末に久々に私どものオーケストラを指揮されます。彼の後任の首席指揮者であるイェンセン氏のカラーが、当楽団で最近ようやく出始めてきており、ここへきて新旧対決の感が無きにしもあらず、といった気がいたします。

 ふだん北欧系の作曲家の作品などを取り上げて地道な活動を着々と続けているイェンセン氏ですが、やはりハノーファーでの知名度においてはまだ大植氏に軍配が上がるのではないでしょうか。

 今のハノーファーでの話題は、大植氏がここしばらくの間にどのように変わったかということに尽きます。ある意味、音楽家も聴衆も彼がよそでの仕事を通じて一段と成長したであろうことを楽しみにしているわけです。彼の首席指揮者としての最後のステージであった09年の日本ツアーから、その後の名誉指揮者としての指揮を始めた前回までの仕事では「今までの続き」という雰囲気がありましたし、これは当然のことだと思います。なんといっても十数年の積み重ねがあるわけですから。

 ところが、ここへ来てはもはや、いわゆる「続き」ではないわけです。いや、たしかに続きと言えなくもないのですが、世の中が彼に対して、なんとなくもっと素晴らしい別の何かを期待しているということでしょうか。ぜいたくな話ですがハノーファーでは、彼が十数年前に初めてアメリカからやって来たときのインパクトの強さに勝るとも劣らない「何か」というのを彼に求めているのだと思います。

 もしドイツのオーケストラが正統派のドイツ音楽をやろうとすれば、自然にドイツ人の指揮者を選ぶことになるでしょう。なんといってもドイツ音楽とて、ドイツ語という言葉に端を発する文化ですから、そこにはドイツ人のドイツ人たる所以があるわけですね。

 ところがそうではない何か別の魅力が、外国人指揮者には備わっていたりします。そして特にそういう魅力にあふれていたのが大植氏だったわけです。

 また反対に、ここハノーファーのオーケストラには、たとえばドイツで教育を受けていない外国人である私などを自分たち楽員の代表として擁立してしまうような懐の深さもあります。また自分たちの指揮者を気軽に「エイジ」と呼び親しんだたぐいまれなオーケストラであったことも事実です。当オーケストラの歴史の中で、大植氏との時代が他の楽団もうらやむような成功例であったことは万人が認めることでもあります。

 そしてひとつの時代が過ぎて、ハノーファーの楽員が彼に対して、すべてのプログラムを暗譜で完璧に指揮するとか、難しいコンチェルトの伴奏の指揮がうまいとか、複雑な変拍子の音楽でも間違いなく指揮をできるとか、聴衆に受けるパフォーマンスがあるとか、リハーサルの時間配分がよいとか、服装のコーディネートがよいとか、彼のそういったことくらいでは簡単に驚いたり、満足しなくなってきているのです。

 つまり、そういったことは当たり前として、さらに高い要求をするようなオーケストラに成長したということにもなります。まったくぜいたくな話だと思いますが、もとはといえば大植氏が育てたわけですから、こればかりは仕方がありませんね。

 なんとなく最近思うのですが、これからのハノーファーのオーケストラにとって、大植氏はドラえもんの道具の「どこでもドア」みたいなものかもしれません。ドア一枚開けると、その向こうに突然別の世界が現れるというわけです。何時間も飛行機に乗らなくても、すぐさま別の国に行けるのですから、こんな便利な道具はありませんね。私どもにとって日本やアメリカが近く感じるようになったのは、あんがいそのせいかもしれません。 今回のステージがどうなるか、とても楽しみにしいます。

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ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー団員・オーボエ奏者
                    
松原 清